赤ちゃんと8ミリフィルム
ここ数年、赤ちゃんに出会う機会が増えました。
わたしの周囲の、同年代の知人たちに、次々と子供が産まれ、みんなパパママ1年生となって、日々しあわせな悪戦苦闘を続けているようです。新米パパママには、我が子が笑った、泣いた、怒った、拗ねた、立った、座った…といった些細なすべてが大事件らしく、それらの姿を、写真やビデオに必死で収めています。その様子は、傍から見ていると少しばかり滑稽でもあり、同時にたいへんほほえましいものでした。
かくいうわたしの両親も、30年近く前、わたしや兄弟の姿を、8ミリフィルムで撮影していたようです。つい最近、その映像を見る機会に恵まれました。色あせたフィルムには、今のわたしよりも若い両親の姿、そして、まんまるな赤んぼうのわたしが映っていました。さらに、わたしたちのうしろには、もう今はこの世にいない人たちが笑っている顔や、閉園となった遊園地、切り倒されてなくなった大木などが、いきいき存在しているさまが映し出されていたのです。
何だか胸がしめつけられ、わたしはそのフィルムを直視できなくなりました。
時は、流れてゆくのです。
すべては移り変わり、ひとつとして形を変えないものなどないのです。
生まれ、育ち、老い、そして死んでゆく。
その去り行く命を受け継いで、またあたらしいいのちは生まれる。
くりかえし、くりかえし。
わたしたちの一生は、その大きな輪の中の、ほんの一点に過ぎないのかもしれません。
わたしの目の前で、今、確かに生きる赤ちゃんの、はちきれんばかりの笑顔と、8ミリに映る、遠い誰かの笑顔が、わたしの中で重なり、そして、ひとつになりました。
なぜだか涙があふれて、止まらなくなりました。

