New Album 「遠い約束」

自分の感受性くらい

041122_1025~01.JPG
 前回のダイアリーで「わたくしもがんばるぞ」なんてことを書きましたが、現在は毎日歌作りに悪戦苦闘しています。
 広いテーブルの上に、歌詞を書くためのワープロと、曲を作るための打ち込みの機械を置き、メモ用紙をくちゃくちゃっと広げて、イスの上に正座して、腕組みをしたり頬杖をついたりしながら、うーむうーむと考え考え、ことばや音を探します。ばらばらのパズルを組み合わせる作業に似ているような。
 なかなか進まない時は、気晴らしにネコを撫でます。それでも進まずに、むなしく時間だけが流れてゆく場合は、あきらめてチョコをぱくぱく食べながら、お笑い番組を見たりしてるうちに寝てしまいます。いかんいかん。

 こないだは「曲作りが進まないのは、この部屋が汚いからなのだ」と、突然部屋が片付いていないことにイライラして、作業は中断、急遽部屋をそうじすることにしました。
 ちょこっとおそうじのつもりが、いつしか大がかりに。力まかせに押入れの扉まで外して、大々的に整理をしていたら、中から最近読まなくなった詩集がいくつか出て来ました。その中から、中高生の頃わたしが大好きだった女流詩人たちの歌が集められた1冊の本を発見。ページを開くと、実にうつくしい言葉たちがたくさん目に飛び込んで来たのです。
 高田敏子さん、新川和江さん、石垣りんさん、滝口雅子さん…戦後間もない時代に書かれた女性たちの歌は、奥ゆかしさの中にも凛とした強さのあるような、きりりとした詩。ああなんてうつくしい世界なんだろう。うっとりしながらページをめくっていると、茨木のり子さんのこんな詩を発見。

「自分の感受性ぐらい/自分で守れ/ばかものよ」(一部抜粋)

 この詩を読んだ瞬間、なんだか心をぴしゃり、とたたかれたような、そんな感覚になりました。厳しい先生にしかられた子どものような気分。
 そうなのだ。なにが大そうじだ。押入れの扉など外している場合じゃないのだ。チョコなんか食べながら、だらしなくいねむりしてる場合じゃないのだ。

 自分の感受性くらい―。

 ハイ。
 そしてわたしは背筋を伸ばし、またテーブルに向かいます。かたわらのネコは、いつだって夢の中。

 窓の外、今夜はやさしい雨が降っているようです。

コンサートにゆく。

041111_2202~01.JPG
 先週わたしは4つのコンサートを見に行って来ました。渋谷のシアターコクーンというホールに、クミコさん、浜田真理子さん、吉田美奈子さん、という3人の方のコンサートを見に。今回、たまたま同じホールで3日間連続してわたしが見たい公演があったため、毎日通うような形になりました。
 そして1日おいて、二胡奏者のジャー・パンファンさんを見に、原宿のクエストホールへ(こちらは、ゲストが桑山哲也さん)。ライブ三昧の1週間でした。

 どのコンサートも、同じ“音楽”とはいえ、当然のことながら全く異なる演奏形態と、それぞれにまるで違った表現方法があり、目の前に広がる世界はどれも圧巻で、ひとことで言えば、とにかく連日感動しました。

 余計なものを一切なくしたステージの上にピアノ1本で登場し、繊細な歌声を聴かせてくださった浜田真理子さん。21人の管楽器をバックに、まるで“歌のかみさま”のように力強くダイナミックに、自由自在な歌声を聴かせてくださった吉田美奈子さん。その音を1フレーズ耳にしただけで涙があふれてしまうほどの、大いなるやさしさにあふれた演奏を聴かせてくださったジャー・パンファンさん。

 どの方もとても素晴らしかったのですが、そんなコンサートの中でも、特にわたしの心に深く残ったのは、クミコさんのライブでした。ことばのひとつひとつ、その端々にも魂や情熱、いのちそのものの力を感じる歌声、そしてステージ上の美しい動きと、遠くから見てもよくわかる豊かな表情。それらが重なり合って、1曲1曲の物語を紡ぎ出す素晴らしさ。
 初めて聴いたたくさんのシャンソンは、まるでお芝居を次々と見せられているようでほんとうにおもしろく、時には甘く、時にはせつなくて…。なんて表現すればよいのかわかりませんが、とにかく聞き手の心を揺さぶる“すごい”歌声なのです。
 クミコさんって、今50歳だそうで、おそらくこれまでいろんなご経験を経て、今の歌を歌っておられるのだと思います。年齢なんて関係ない、とも言えるのかもしれませんが、やはり、長い間歌い続けて来られた方でないと、歌うことのできない歌がある、と感じました。きらきら輝くクミコさんの笑顔が、今も忘れられません。

 いろんな方の“音”の美しさに触れた数日間。
 心の洗濯をして、さあ、あしたから、わたくしもまたがんばるぞ、と誓ったのでした(笑)。

太陽が沈みゆく先に

041031_1627~01.JPG
 先週わたしは、数日間のヨーロッパ旅行に行って来ました。ブダペスト(ハンガリー)、ウイーン(オーストリア)、プラハ(チェコ)という、3カ国3都市を回る旅です。中世の香りが色濃く残る街を歩き、古い大聖堂やお城を見学して、ふだんはめったに耳にすることがない古典音楽を聴き、カフェでは甘くて大きなケーキを食べ、新旧さまざまな美術品を見て、お肉とじゃがいもの料理で黒ビールを飲む。そして街から街へと、広がる田園風景を眺めながら移動する…そんな旅。

 気候や風土、地形などが異なると、育つ植物ひとつとっても日本とはまるで違うし、建造物、食事、宗教、慣習といった文化も、そんな自然環境に影響されてか、わたしが慣れ親しんだものとは、全く異なるもの。見るもの聞くもの、ほんの少し触れただけの“西洋”に、わたしは驚きの連続でした。ちなみに写真は、チェコの森で拾った葉っぱ。

 あるカトリックの教会を訪ねたとき、現地のガイドさんが「ここでは東に向かって礼拝します。太陽が昇る方角だからです。」と説明してくれました。
 わたしがふだん家で手を合わせている仏さまは、西にいると言われています。ならば太陽が沈む先で待つかみさま、ということにでもなるのかな…。

 そのときふと、以前、能楽を習っていたときに聞いた、東西の舞踏を比較した話を思い出しました。西洋のバレエはつま先で立ち、上へ上へと飛び上がり、天に向かって花を咲かせようとする舞い。一方、日本の能は、大地を踏みしめて、下に下に響きを求める舞い。また、花がいつまでも散らないことを願う西洋の舞に対して、花が散りゆく姿を見届けようとする日本の舞い。
 なんだったか、そんな内容だったような…。
 もちろん、西洋のダンスはバレエだけではないし、日本の舞いも能楽だけではありません。だから、すべてが今の話に当てはまるわけではないと思うけれど…。
 でも、ひとつ、もののとらえ方として、先の教会の話とだぶるような気がしました。

 仏教のすべての仏さまが、西にいるわけではありません。また、西洋の教会が、必ずしも東に向かって礼拝するとも限らないでしょう。でも、散りゆくもの、去りゆくもの、沈みゆくもの、そんなさだめを憂いつつも、受け入れ、その様を敬う。そんな考え方が、日本の文化の中には存在しているような気がしました。

 昇る太陽に背を向けて、沈みゆく光に手を合わせる。か。

 陽光に透けて輝く、教会のうつくしいステンドグラスに見とれながら、ふだんは考えない、自分の国のことなどをむにゃむにゃ思い巡らせたりしていました。

…あれ。旅行記を書こうとしていたら話がかなり脱線してしまったような…。とりあえず、今回は長くなったのでこのへんで…(汗)。つづく。あはは。

追伸・わたしが旅をしている間に、日本では台風に地震で、多くの方が大変な被害に遭われたのですね。そして今も、不自由な生活を強いられている方がたくさんおられるとのこと。胸が痛みます。天災ばかりは、わたしたち人間にはどうすることもできませんが、今はただ、各地の1日も早い復興を願っております。

お問合せ